越智孫兵衛
越智孫兵衛は、この地方(延喜)の庄屋だったのですが、百姓、特に小作人の
生活が苦しく年貢を出してしまうと、翌年の種籾(たねもみ)さえ残らないような
状況でした。
こんな百姓の生活を見ていたため、何とか年貢を軽くする方法がないかと頭を
悩ましておりました。
当時はどんなに生活が苦しくとも、年貢の徴収だけは最優先で、年貢を納める
事のできない農民は、子供を売ってでも、年貢を納めるか土地を捨て逃げ出す
かの、どちらかの方法しかなかったのです。
庄屋にしても村人の生活が苦しいから、年貢を免除して下さいとは言える立場
ではなかったのです。

ある時、近くの溜池の修理普請が延喜(えんぎ)の人たちに科せられました。
この時に越智孫兵衛は一計を謀りました。
孫兵衛は農民を集めて、池普請に出る時は一番粗末な仕度をする事、そして
弁当はお粥を竹筒に入れて持って行くように言いました。
弁当の時間、農民たちがお粥を飲んでいるのを巡視にきた代官が見てお酒を
飲んでいると勘違いし、すぐに庄屋の孫兵衛が呼ばれ、普請奉行(代官)から
叱られましたが、お粥の入った竹筒を見せ、農民の苦しい生活を、色々と訴え
これを聞き同情した代官は、殿様に伝えて特別に年貢が軽減されました。
この後の享保17年(1732)には、ウンカの大量発生が原因の享保の大飢饉が
西日本一帯を襲った時も、この地方では一人の餓死者もでなかったと言われ
ております。