幸福原則

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サイクル①目的認識

direction.no.jpg「我々の時代の問題とは、どこもかしこも『道しるべ』ばかりで『目的地』が示されていないことだ。」(Louis Kronenberger)

「目的が不明確」な人生を生きるのは、目を閉じて歩くのと同じです。

いつか必ずついえてしまいます。ですから「人生の目的」とは、人間が持ちえる知識の中でも最高の知識と言えるでしょう。教会にとっても、「何のためにこの教会は存在するのか」という問いに、明確な答えを持っているということは、極めて重要なことです。

■横浜オンヌリキリスト教会の目的声明文                          
「横浜オンヌリキリスト教会は、『礼拝の共同体』、『聖霊の共同体』、特に第一義的使命である『宣教の共同体』への成熟によって、神の栄光を回復させるために存在しています。

上記は、横浜オンヌリキリスト教会の「目的声明文」です。ここに、2つのキーワードがあります。それは『成熟』『神の栄光』です。

私たちは、全世界の人々が、そしてこの日本の国民が、この天地を創造された、創造主なる神様が、愛され、慕われ、尊ばれるようになることを切願します。本来、神様が受けるべき、栄光と誉れを、私たちの住む地域においても、神様がお受けになるようになることをビジョンとして抱いています。実に、クリスチャンが、死後に「永遠のいのち」を保障されているにも拘らず、今なお、この地に「生かされている」理由は、まさにこの『神の栄光の回復』のためだと信じます。これが我らクリスチャンの、この地における存在理由であると信じます。では、この『神の栄光の回復』という私たちの存在理由と使命を、いかに具現化してゆくことができるのでしょうか。

『神の栄光の回復』は、何よりも、人々の中になされていかねばなりません。人々が、神を知り、その愛に打たれ、罪を悔い改め、「真の礼拝者」にと変えられてゆくことが、『神の栄光の回復』です。しかし、そのためには、この『回復の運動』に、召された私たちクリスチャン自身が、どこまでも、留まることなく、神の『栄光の似姿』へと回復し続ける必要があります。

「人生が変えられた!」という証しを、世は否定することが出来ません。しかし長年に渡り、神から独立した環境の中で、培われた性格やライフスタイルが、「変わる」ということは、容易なことではありません。神様の恵みにより、瞬時に激変する人もいますが、変化するということ、トランスフォームするということは、多くの場合、「プロセス」(段階)を意図されています。いずれにせよ、復活のキリストにあって、どんな人間でも、「生まれ変わる」ことができるのです。

神様はそのために『聖霊様』という『助け主』をお送り下さいました。その方はキリストを主と心から告白する、私たちクリスチャンの中に生きておられ、私たちを造り変える偉大な神の計画を、担っておられるのです。聖霊様のミッションとは、私たちを、神の栄光を反映する者へと「創りかえる」(Regenerate)ことなのです。しかしこの方は『助け主』なのであって、主体的決断は、常に私たちが下さねばなりません。

『内住のキリスト』であられる聖霊様は、私たちの「主」ですが、独裁者ではありません。私たちの合意と選択なしに、人生を乗っ取るということをなさいません。その意思がおありならば、「エデンの園」ですでになさっていたことでしょう。神がそうしなかったのは、私たちが、自ら、与えられた自由意思を用いて、神を主体的に『選択』することを、願ったからです。『選択』とは、常に神と人類の間をつなぐキーワードです。神の本心とは、我らと共に生き、我らと共に働き、我らと共に『神の目的』を実現してゆくことなのです。

神にとって、全人類を、神の前に跪かせることは、今この瞬間にでも可能なことです。でもそうなさらないのは、神には、私たちを観客とした、「一人舞台」を演じるご意思がないからです。神は、私たちにも、その檜舞台に共に立つことを願っておられるのです。一緒に『神の物語』(History)を書き綴りたいのです。キリストが、『十字架を負ってわたしについて来なさい。』と命じられたのは、そのための招きなのです。聖霊様は、私たちを助けますが、この『人生の目的』を、「生きる」のは私たちなのです。つまり、変化してゆくための『選択』は、私たちのものなのです。

こうして、聖霊様のお助けを頂きながら、罪の生活から立ち返り、『キリストの似姿』へと日々成熟してゆく、『選択』に生きるクリスチャンの人生は、どんな雄弁な説教にも勝って、生きた神様を、世に提示する「説得力」となります。もう一度言います。その証を、世界は否定できないのです!ただし、これは、前述のように、プロセスです。瞬時の激変ではなく、段階であり、積み重ねであり、努力と時間の要することなのです。

その意味で、キリスト者の人生とは、『キリ』という大工道具のようです。『キリ』は、細くて、曲がりやすい、弱い道具ですが、力を一点に集中させ、地道に、時間をかけて回転し続けると、硬い鉄板さえも貫くことができます。ハンマーには力がありますが、このようなことは成しえません。私たちも、一人一人は小さく、弱い存在ですが、『人生の目的』という一点に向かって、ぶれず、離れず、さ迷い出ず、一点集中的に、キリストに向かって生きるならば、必ず、自分の中に変化を見出すことでしょう。そればかりか、どんなに神からかけ離れた社会の中にも、自分を通して、『神の栄光』という「風穴」が開けられるのを見ることになるでしょう。

Grow(成熟) to Glow(栄化)と覚えましょう。これが人生の目的です。目的を選択しましょう。目的にに向かって、歩み続けましょう!

■人生の目的
私たち、クリスチャンの人生の目的とは、召されている環境において、『神様の栄光』を回復させることです。そしてそのための道とは、まず自らが、キリストのご人格へと成熟し、変化し続けることなのです。


サイクル②原則実践

四つの航海術.bmp四つの航海術という、成功原則

キリストによって、神様と和解した私たちは、もはや人生という洋上の漂流者ではありません。

私たちは、今、天の「パラダイス」という安息の大陸に向かって、キリストという不沈船に乗って旅をしているところです。しかし私たちと、この船には、「パラダイス」に到着する前に、寄らねばならない島々が沢山あります。そこには、キリストという不沈船の存在さえ、まだ知らされていない人々が沢山住んでいるのです。誰かが、行って、キリストという不沈船の存在を伝えてあげなければなりません。そうでなければ、いずれやって来る大津波に、皆飲まれて死んでしまいます。しかし、自分の身の安全を放棄して、その島々へ渡るということは、誰もが好む選択ではありません。

クリスチャンとなった私たちには、「ミッション」があります。多くの魂を、救うために、冒さねばならないリスクがあり、渡らねばならない荒海があるのです。

しかし誰かが行かねばなりません。私たちも、そうやって誰かから、このグッドニュースを伝えてもらったのですから!そして恐れる必要もありません。なぜならば神様は、私たちに、聖書を通して、この『宣教者としての人生』を往くための『航海術』を明示して下さっているからです。

P5-54.jpg「私は嵐を恐れない。航海術を学んでいるから。」(ルイズ・メイ・オルコック)

霊的航海術①「祈り」
第一の霊的航海術は、祈りです。私たちにとっての「聖霊様」は、帆船にとっての風と同じです。帆船が風を「推進力」に変えるためには、『展帆』(てんぱん)という作業をしなければなりません。つまり帆を揚げるという作業です。

等しく、クリスチャンが、「聖霊の風」を、推進力とするためには、必ず『祈りの帆』を揚げなければなりません。聖書には、聖霊の力を受ける人々は、「・・・エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)と書いてあります。これは、地元だけでなく、郊外へ、さらには全世界に出て行くという意味です。更には、物理的な距離だけでなく、人の心の深みにも、福音を効果的に届けることができるという意味でもあります。つまり、聖霊の力により、自力では漕ぎだせない領域にまで、行くことができるということです。帆を揚げずに、「船が進まない」と悩む航海士は、愚かな航海士です。祈らずに、「勝利できない」と悩むクリスチャンも、また愚かなクリスチャンと言えるでしょう。

霊的航海術②「QT/聖書黙想」

航海士にとっての海図は、私たちにとっての「聖書」です。航海士は、常に海図から離れません。定期的に、海図の上に、自船の移動した経路を記録しながら、航行を続けます。こうして自分の居場所と、目的地を常に認識するのです。そうしないと、漂流者になってしまい、難破してしまうからです。

聖書を読むということは、海図と向き合う作業と同じです。これを怠っているため、人生を漂流し、難破しかけているクリスチャンが大勢います。しかし聖書を読むならば、「自分の位置」と「目的地」を把握することができます。自分が、神の御心という「航路」の上に果たして留まっているのか。あるいは、ずれているのか。ずれているのなら、どこからずれてしまったのか。どの方向へ軌道修正すべきなのか。「・・・どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。」(黙示録2:4~5a) このように、毎日、霊的海図と、向き合う人だけが、「目的地」に到着することができるのです。聖書は、確かに「教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益」(2テモテ3:16)なのです。

霊的航海術③チームワーク

キリストの人生は、『父のビジョン』に、貫かれていました。キリストは、そのビジョンに「とりつかれたように」生きました。『父のビジョン』が『キリストのビジョン』となったのです。つまりキリストのビジョンは、オリジナル・ビジョンではなかったのです。キリストのビジョンは、『父のビジョン』だったのです。

キリストは、天に昇天される直前、その『ビジョン』を、弟子たち、つまり『孵化期の教会』に注ぎ込みました。まるで胎教(胎児教育)をするように、キリストは、生まれる前の教会に向かって、それが骨となり、血となり、肉となるようにと願いながら、『ビジョン』を注ぎ込んだのです。

「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:18-20)

キリストは、この『大宣教命令』の中に、これまで自分の人生を貫き、十字架にまで突き動かし続けた、『父のビジョン』を、託しました。そして、生まれる前に、この『大宣教命令』を聞いていた教会は、生まれた瞬間から、その『ビジョン』に向かって、走り始めたのです。そこに迷いはありませんでした。こうして、『父とキリストのビジョン』が、『教会のビジョン』となったのです。

しかし、教会誕生から2000年が経っても、未だに『ビジョンの完成』は、果たされていません。今なお、世界中の教会が、全力を上げて、世界に宣教師を派遣し、各地に福音を述べ伝えていますが、残された働きは、まだまだ多くあります。この日本などは、その領域の中にある国の一つです。

このビジョンを成し遂げるためには、まずクリスチャン一人一人が、キリストのごとく、そのビジョンに「とりつかれ」なければなりません。そして、そのビジョンに燃えている者同士が、協力し合わなければなりません。

教会は帆船です。そして帆船には決定的な弱点があります。それは、一人一人がどんなにビジョンに燃えていても、またどんなに優れた才能を持っていたとしても、「チームワーク」を活かさねば、決して動かないという点です。

その点ではボートが勝ります。日本の殆どの教会が、牧師夫婦のみが奮闘するボートのような状態です。しかし私たちが、渡らねばならないのは「川」ではなく、「荒海」なのです。教会と社会、教会と学校、教会と病院、教会と地方都市、教会と異教徒たちと、すべての「隔ての大海」を渡らねばならないのです。

もし教会という帆船の、乗組員一人一人が、救霊という「ミッション」の重要性に目覚め、「父とキリストのビジョン」にとりつかれた弟子となるならば!? そして、そのビジョンの実現のために、もはや『お客様意識』を捨て、「持ち場を死守する水兵」のような心で、お互いに仕え合い、献身し合うならば、どんな動きを教会は見せることになるのだろう!?

もし聖徒全員が、任務の大小にこだわりなく、賜物の大小にこだわりなく、召された領域で、肢体のごとく、しなやかに、謙遜に、忠実に仕える者となるならば、教会は、果たして、どのようなポテンシャル(潜在能力)を解き放つことになるだろう!? 教会が、『チームワーク』という原則を、活かす日が来るならば、世界は、教会を通して、どのような変化を経験することになるのだろう。きっとその日、日本という宣教地を、私たちは小さく感じるに違いありません。

霊的航海術④救霊活動

ジョン・スタインベックの著書『キャナリー・ロウ』に、舟作りの天才的職人アンリが登場します。彼が作る舟は、舟と言うより、芸術作品でした。完璧なまでの出来栄えでした。しかし彼は、どの舟も完成間近になると、なぜか不満げな顔で、壊してしまうのでした。そして次の舟を作り始めるのです。人々は、彼のその行動を不思議がるのですが、ある知恵のある人物が、こう言います。「アンリは舟は好きなんだが、海が怖いのだ。」 

私たちが、『航海術』を学ばねばならないのは、クルージング(回遊)するためではありません。魂を救うためです。私たちが、「不幸な人生」ではなく、「幸福な人生」を築かねばならないのも、すべて、滅びゆく魂を救うためです。証しを建てるためです。ですから、目の前に、滅びゆく魂がいるのに、福音のイントロさえも、恐ろしくて、語れないのだとすれば、どんなに麗しく築き上げた家も、どんなに高く積み上げた学歴も、どんなに幸せなファミリーライフも、先ほどのアンリが作った舟と同じく、「使われない手段」として朽ちるしかありません。

滅びゆく魂を目の前にするたびに、私たちは「手段と目的を履き違えてはいないか?」と、主に試されているとことを知るべきです。私たちは、キリストによって、新しい人生を頂きました。「人生の目的」も明白になりました。それでも、救霊に心が燃えるのでなければ、私たちは、やはり漂流者のままなのです。

サイクル③方向確認

方向確認.bmp愛実践の四方向

イエス様は、「わたしのくび木は負いやすく軽い」と約束されました。しかしどうして多くのクリスチャンが疲れ果てているのでしょう。それは信仰生活において、スピードよりも方向、また一方向よりもバランスが大切であることを忘れてしまった結果かもしれません。私たちは、四つの方向に、愛を結ぶように召されています。

①アップリーチ(礼拝):
   キリストが天の父を愛されたように、天の父を愛する。
②インリーチ(隣人愛):
   キリストが隣人を愛されたように、隣人を愛する。
③アウトリーチ(伝道):
   キリストが世界を愛されたように、世界を愛する。
④ダウンリーチ(自己愛):
   キリストが私を愛して下さったように、自分を愛する。

植物は、根が豊かであれば、枯渇することがなく、また嵐が来ても容易に倒れません。同じようにクリスチャンも、豊かな実を結ぶ者であるためには、「根」を地深くに下ろさなくてはなりません。つまり自分の心に降りてゆく「ダウンリーチ」ができなければなりません。

ダウンリーチとは、キリストが愛し、評価し、祝福して下さった様に、自分自身を評価し、愛し、祝福することです。親が愛したようにではありません。学校の先生が評価したようにではありません。キリストがされたようにです。健全で、継続的で、不変的な、自己愛は、健全な自己像を回復します。

多くのクリスチャンは、このダウンリーチ(自己愛)を忘れ、アップリーチ(礼拝)、インリーチ(隣人愛)、アウトリーチ(伝道)と忙しく、気が付くと、心も体も乾き切っています。皆さんは十分に「ダウンリーチ」しておられるでしょうか。神様の「恵みの水源」に、皆さんの霊の根は触れているでしょうか。そうでないならばQT(静思の時)を持つようにして下さい。そして神様との深い交わりの中で、自分への愛の供給を受けてください。

そして恵みを受けたならば、今度はそれをインリーチ(隣人愛)、アップリーチ(礼拝)、アウトリーチ(伝道)の方向へと祝福を流してください。もし、流さないならば、それは健全な自己愛ではなく、ナルシズム(自己中心的愛)となり、「恵みボケ」という自家中毒を招くことになるでしょう。

愛は流すために受けたのです。スピードよりも方向、一方向よりもバランスです。


サイクル④成熟診断

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理念は、行動に移さねば意味がありません。またその行動が、理念の具現化に貢献しているのか、定期的に診断しなければ、的外れな行動を繰り返すことになりえます。

サイクル①目的認識の項目で述べたように、私たちの存在理由と、存在目的は、「召されている環境において、『神様の栄光』を回復させることです。そしてそのための道とは、まず自らが、キリストのご人格へと成熟し、変化し続けること」です。

ならば、その理念を、行動に移しましょう。聖書は、御声に従った神の民に、祝福が注がれる様を、数限りなく記録しています。信仰を行動に移すとき、聖霊様の助けを顕著に、経験するのです。

この「理念の行動化」を、横浜オンヌリキリスト教会は、『年始の抱負』という方法で、実践することを勧めています。そのために、聖徒一人一人が、毎年年末年始に、じっくりと時間をかけて静まり、聖霊様に伺いながら、『年始の抱負』を書き出すことを奨めています。そして聖徒同士で、パートナーシップを結び、『年始の抱負』を協力しながら、実践します。一人では「三日坊主」かもしれませんが、パートナーがいれば、困難な課題も、継続的に取り組めるものです。

「鉄は鉄をもって研磨する。人はその友によって研磨される。」(箴言27:17)

「どうせ私は三日坊主だから」と決め込まないで下さい。もし、3つリストアップして、1つしか達成できなかったとしても、その人は、確実に前進したと言えます。年を重ねるごとに、堕落してゆく人生もあるのです。後退の人生もありうるのです。ならば、小さな達成、小さな前進であっても、それは素晴らしい人生を生きていることの証です。大切なのは、スピードより方向です。

その意味で、「一年の抱負」を決めるということは極めて重要です。それさえ決めないのだとすると、私たちは自らの成熟度合いを測る術さえ持ち合わせないことになります。実は、私たちは10年前から、ちっとも変わっていないかもしれないのです。「30年間、何の成長もしていなかった…」 それは想像するだけでも恐ろしいことです。

18世紀のイギリスで、「一年の抱負」どころか、もっと厳しい自己管理と自己改革を目指したクリスチャンたちがいました。彼らは一分も、無駄にしないという心構えで、時間と人格の管理を試みました。彼らはメソジスト(几帳面屋)と呼ばれ、人々から馬鹿にされましたが、神様は、彼らをこれまで人類が見たこともないような規模でお用いになられました。それが「大英リバイバル」(1727年)です。その後もリバイバル運動は止まらず、1792年の「第二リバイバル」、1830年の「第三リバイバル」、1857年、1859年、1880年、1904年と、世界中で何千万もの人々がイエス・キリストを信じ救われる結果へと繋がったのです。

Jwesleysitting.jpgジョン・ウェスレー(1703-1791)
これが『Acts29型クリスチャン』です。使徒行伝29章目を、自らの人生で、書き綴り続けるクリスチャンです。初代教会の霊的勢いを、回復させる人です。その人は、聖霊とみことばの人です。その人は、詩篇一章に記されている人のごとく、「何をしても栄える」人です。

「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」(詩編1:2,3)

しかし、このような「神の器」が、一朝一夕に出来上がるなどと、考えてはいけません。その人が、何をしても栄えるのは、「昼も夜も、その教えを口ずさむ」とあるように、「習慣の人」だからです。

●「人格とは繰り返し行う行動の総計である。それゆえ優れた人格とは、単発的な行動の結果ではなく、習慣の結果である。」(アリストテレス)
●人の本性はみな同じだ。違いが生じるのは各人の習慣によってである。(孔子)

ぜひ、「一年の抱負」を決めてください。それが、新しい習慣を作り、新しい人格を育てます。クリスチャンは、ましてや聖霊様の力を受けているのです。風は追い風なのです。変えられないはずがないのです。年始からでなくてもかまいません。いつからでもスタートできます。そして信仰の仲間同士で、「一緒にがんばろう」と励ましあってください。項目は多くなくても結構です。一年で聖書を通読するとか、週に一度は運動をするとか、自分自身と家族の益となることを選ばれると良いでしょう。

終わりに・・・

私たちは、この地上生活を後にするとき、「後悔の念」ではなく、レースを完走したマラソン選手のように「達成感」と「充足感」をもって、主の御前に参上することが出来るでしょうか。主ご自身も、「よくやった、我が忠実なしもべ」と私たちを呼んで下さるでしょうか。後輩者や家族は、私たちの生き様と死に様に、霊的な励ましや、肯定的なメッセージを受け継いでくれるでしょうか。

これらの問いかけに、私たちを十分に悩み、その『ビジョン』の達成のために、本気で具体的な計画を立てているでしょうか。それとも惰性的に、生きているに過ぎないのでしょうか。

幸福は、勝手にやって来るものではありません。
幸福人生のための、幸福原則があるのです。

本書に記した内容は、聖書に見られる幸福原則です。
それらをもう一度、整理してみましょう。

saikuru1.bmp霊的成功への4サイクル

サイクル①目的認識 目的は明確か?
サイクル②原則実践 原則を活かしているか?
サイクル③方向確認 アンバランスではないか?
サイクル④成熟診断 成熟しつつあるのか?

これはサイクルです。これらを、何度も何度も繰り返し、回りながら、「円熟」してゆくのです。「一つをつかみ、もう一つを手放さないがよい。神を恐れる者は、この両方を会得している。」(伝道者の書7:18)とある通りです。

1968年に暗殺されたロバート・F・ケネディーという人物は、"An idealist without illusion."(幻覚なしの理想主義者)と呼ばれました。私たちクリスチャンも、"A Christian without illusion"(幻覚なしのクリスチャン)にならねばなりません。

リバイバルを語ることに陶酔し、リバイバルを憧れているだけでなく、リバイバルを実現する、堅実な実行計画を立てねばなりません。その実行計画の「基礎」となるようにとの祈りを込めて、今回、本書を記しました。

どうか皆さん、幸せになて下さい。不完全燃焼ではなく、完全燃焼の人生を生きて下さい。不満足ではなく、充足人生を生きて下さい。幸せになり、豊かになり、キリストのために良い証しを沢山たてて下さい。教会を愛して下さい。教会に献身して下さい。この船が、来るのを待っている、滅びゆく魂が沢山あるのです。私たちが福音を携えて来るのを待っています。宣教師を送る必要があります。献身者を育て、教会を開拓して行く必要があります。そして互いに協力し、チームワークで伝道しましょう。多くの民を、イエス様のもとにお連れしましょう。こうして、全ての栄光を主にお返ししましょう。一つ残らず、お返ししましょう。これが、私たちの召された人生であり、私たちの『選択』した特別な人生なのです。

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(2コリント3:18)

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。(ガラテヤ5:22、23)

                         2008年4月3日 
                         横浜オンヌリキリスト教会
                         牧師 山中 知義